中西優香、便利屋の矜持

「西中」として親しまれていた、AKB48研究生の精神的支柱・中西優香が、SKE48へ移籍となった。チームの正式メンバーがメディア出演や蓄積された疲労で抜けていく中、その穴を埋めるスーパーサブとして各チームのアンダーを務め、A、K、Bすべてのチーム、そして研究生公演と、全てのAKB48の公演に精力的に関わり、大車輪の活躍をしていた中西の異動に、驚きと不安を感じた反応も多かったようだ。
いつから決まっていた異動かは知るすべもないが、考えてみれば、「鉄人」と例えられたここ最近の連続出演も、研究生という立場を活かして、AKB48で得られるものは、今のうちに全て吸収しておくという、SKE48移籍への布石だったと考えれば筋が通る。後輩の宮崎美穂北原里英指原莉乃仁藤萌乃らにチーム昇格を先んじられたことが異動受諾の理由ではなく、彼女ら後輩の昇格よりも、中西のSKE48移籍が先に決まっていたという流れのほうが自然だ。
決断の大きな後押しは、同じようなスーパーサブ的存在だった、現チームAの藤江れいな佐藤亜美菜の昇格後を見たというのが大きいように思える。藤江や佐藤のようにAKB後発期生として、個性ある先輩の中に難しい舵取りを迫られるより、SKE1期という、注目が約束された「はじまりのメンバー」を冷静に選んだのだろう。それは、出身地やそのほかの納得できる理由という彼女の背景を抜きにしても、理に適う決断だったはずだ。そして、これは「便利屋」として働いてきた苦労人が切った、最後のカード「ジョーカー」であり、彼女の「誇り」の顕われなのだろう。
川崎希のアンダーを務めたときの『BINGO!』では、高橋みなみの「全力」と張り合う存在にまで成長していた中西だから、まるで東西横綱揃い踏みといった見応えのある競演が観られなくなるというのは寂しいところだ。移籍が発表されたときの、大堀恵浦野一美秋元才加らから漏れた驚きと不安の言葉は、我々が感じたものと同じく本音だろう。中西は、安心して任せられるアンダーとして、チームの先輩メンバーに一目置かれる存在だったのだ。だから、経験のないSKE48にとっては、チームAの経験を伝授した現・チームBの浦野一美のように、歓迎すべき存在になるだろうし、元AKB48研究生の出口陽の存在と共に、たいへんな財産となるはずだ。
これは決して「都落ち」などではない。文字通り、栄に転じることは「栄転」といってもいいだろう。きっとSKE48でも、年下からいじられる愛すべきお姉さんとして、チームになくてはならない存在になっていくはずだ。だから、今回のこの異動は、AKB48と肩を並べる存在として成長したSKE48を率い、同じステージで競演する未来が来ることを予感させる、歓迎すべき慶事ではないだろうか。
最後の観たのは「アンコールなし」の一件の翌昼公演だった。いつも通り、研究生の中では頭ひとつ抜けたパフォーマンスだった。「SKE48中西優香」でしばらく上書きできないほど鮮やかな「AKB48研究生・中西優香」の姿を、我々や研究生の心に残して中西は去った。熱かった3回公演の夏の記憶とともに。
彼女の前途を祝福したい。

モンスター・ファンがAKB48を喰い殺す

(過去に書いたがアップしていなかったもの。先日のチームBメンバーを巡る一件と、研究生公演でのアンコールなしの一件に思うところがあったので掲載する)


サンシャイン栄でのイベントはまるで悪夢だった。結果的に、SKE48の宣伝になるどころか、AKB48はとんでもないファン抱える問題グループと認識されてもおかしくない、悪しき喧伝になっていた。誤解を恐れないで指摘すれば、各地から乗り込んだ熱心なファンと称する一部の人々のマナーが最悪だったのだ。

運営側にも幾つかの不手際があった。まず予測の甘さがあった。スタッフでカバーできる人数を超える人々が集まったことで、現場が混乱していた。つぎに連絡の不徹底。スタッフの間で情報が食い違うという、一部に混乱を招く状態があった。一部の人々をアンコール前の暗転で帰してしまったり、握手会に関する間違った情報をアナウンスしていた。気付かなかったこのほかにもきっといろいろなことがあっただろう。

熱心なファンという「モンスター」の誘導を、スタッフは体験したことがなかったというのもあるだろう。それでも、ほとんどの参加者は、混乱が起きてイベントが中止になったら、駆けつけて並んだ努力が水の泡になるという自制が働くのか、特に問題を起こすようなことはしない。それが集団を維持する自助機能でもある。

しかし、中止になればなったで、勇んで補償を要求するような人々は違うようだ。一部のファンの因縁の付け方など、ヤクザ顔負けだった。大声で会場スタッフを恫喝する声が、名古屋の街をゆく通行人の足を止めていたのを見て、この時点で、宣伝になるどころか、マイナスにしかならないことを確信したほどだ。

そして、残念ながら、仕切りの拙さにつけ込んで「なんでもあり」にしてしまう集団もあった。それも『48現象』で登場する有名なファンを含む集団である。運営側の戸賀崎劇場支配人を囲んで直接情報を引き出せるような「常連」と呼ばれる人たちだ。彼らの行動はとにかく醜かった。家族連れや、はじめてAKB48を見に来た女性たちの前で、罪悪感もなく列の横入りをしてみせたのだ。常連の風を吹かして、我が家でふるまうような余裕のあるふりをしながら、素人を押しのけて、素人以上に必死に立ち回る姿は滑稽ですらあった。

以前、「応援」の名の元に繰り広げられる乱痴気騒ぎに触れた。これが、今回はそのまま歩道へ続く屋外の公共空間で行なわれてしまった。そもそも、自己満足のオタ芸を、どうして応援などと言えるのだろうか? 歌に被せて大声で叫ぶことは、周りの人々の聞く権利を侵害する行為だ。劇場内のように、共犯関係であるファン同士にのみ許容されることが、ファンだけではない公共空間で許されるはずがない。タリーズコーヒーの入口前で、階下に置かれたモニターを見ながら、大声でオタ芸を繰り広げていた集団は、威力業務妨害罪として訴えられてもおかしくなかった。しかもそれは、イベント開始前に流されていた『僕の太陽』公演のDVD映像から、延々と続けられていた。特設された地下広場会場ではない一般通路での観劇は、通行人に迷惑のかけない範囲で行なうのが望ましいはずだ。大声で叫び踊るなど迷惑以外の何者でもない。

そもそも、何かを「応援」すると称する行為なら、それは自己顕示欲の誇示であってはならないはずだ。行き過ぎた応援は、足を引っ張るだけだ。押しつけの「愛」ほど迷惑なものはない。個々人ではおとなしいのに、群れたがり、馴れ合いたがり、そして集団になればなるほど、秩序を失っていく。大の大人が数にものを言わせて、このやり方が正義だとうそぶく、衆愚の最たるものである。

このモンスター・ファンたちの消費者意識の暴走が、AKB48を喰い殺す日が近づいているように思える。中でも、アイドルファンを自称するやっかいなピーターパンたちには気をつけなければならない。彼らにとっては、AKB48がなくなっても、また別の若くて何も知らない女の子を求めて徘徊すればいいだけである。しかし、彼女たちは、やっと掴んだ夢へのチャンスを台無しにされるのだ。ブログやネットによるクレーマー的反応がどうであろうと、運営側はもっとはっきりと一線を引いて秩序を作り上げるべきだし、明確な意志と身体を張って、彼女らとAKB48を守ってやらなければならない。

そして、常連たちは自らを省みて、新しくやってきたファンの「悪しき実例」にならないようにしてほしい。新規ファンのマナーを嘆く前に、彼らは先人の背中を見て学んでいるのだということを思い出すべきなのだ。「初心を忘れずに」を繰り返すのは、メンバーだけではなく、我々ファンもである。一部の悪しき常連と、それを野放しにする戸賀崎劇場支配人ら運営側に、猛省を促したい。

総共有時代の新曲リリース、すべては劇場へというシナリオ

AKB48の新曲が、NTTドコモ系列のサービス限定の配信でリリースされた。知人の携帯を通じて見せてもらったが、なるほど面白い試みである。携帯の小さい画面を、大の男が複数で覗き込んでいるという不思議な図だったが、その共有したわずかな時間を、自分が見つけた面白いもの、あるいは宝物を、見せあって分かち合うような、懐かしく新鮮なコミュニケーションとして楽しんだ。中高生が学校で、漫画雑誌のグラビアを「つきあうなら、この子」と他愛のない会話をしながら見ているような感じだろうか。実際のところ、AKB48の携帯動画を見ながら、学校でそういう光景が繰り広げられているかもしれない。

残念ながら、CDが何百万枚も売れる時代は過去のものになった。今は各社が配信に場所を移してミリオンを競う時代である。わざわざ書くまでもないが、携帯電話や、iPodをはじめとする携帯音楽プレーヤーで音楽データを持ち歩く現代は、最初からデータになっていたほうが便利である。その変化に伴って、CD売上げの内訳も、PVのDVDや、封入物などのオマケ付きのものが売れるだけに変わってしまった。CDがオマケになるという、本末転倒な状況になって久しい。
これはAKB48においても例外ではないはずだ。握手会のチケットに成り下がったCDは、物理的にもコストとしても積み上がっている。さらに、熱心な一握りの層が、オマケ目当てに複数枚買っているという状況は、CD売り上げ=人気という指標とならない難しさを生み出している。もはや、CD市場が示すデータは、出荷数は言えても、売れたとか、人気が出たとか、浸透した証明にはならなくなっているのだ。

それで、AKB48が打った手が、携帯からの配信である。考えてもみると、AKB48がターゲットにする若年層において、ほとんどの人にとっては、CDショップへAKB48のCDを買いに行くより、PCでAmazonへ行き、何度かクリックして買うほうが楽だと思っているはずだ。同じように、PCでナップスターを体験してみるのも簡単だ。さらに言えば、PCを立ち上げるよりも、手元にある携帯で、配信を買うほうが敷居がもっと低くなる。かつて経験した懐かしい自意識を思い出せば、少しわかりやすい。ミーハーなCDをCDショップで買うことは、エロ本をコンビニで買うことと同じくらい抵抗がある年頃の話だ。もちろん、もっとお手軽な動画共有サービスの利用や、最初にあるような、友達と一緒に携帯を覗き込むという方法もあるだろう。

しかし、AKB48はミリオンを狙って、新曲の携帯配信をはじめたわけではないはずだ。携帯最王手キャリアとの縁を大事にしながら、独占配信で義理立てしつつ、ドコモ携帯新機種の潤沢な販促資金を使って、AKB48そのもののプロモーションができるからだろう。もちろん、CDで新曲を出す場合と、比較にならない効果が望めるという、したたかな判断にほかならない。ここから見えてくるのは、AKB48のすべてのプロモーションは、過去のように、CDを売ってレコード会社を儲けさせるための手段ではなく、劇場に来てくれる人を増やすための手段と、割り切って考えられていることだ。だから、いつも・どこでも・誰でも持ち歩いていて浸透している、携帯電話が主なターゲットなのだ。

そこからのシナリオはあっけないほど簡単だ。携帯の小さい画面で興味を持った層が、やがて深夜のテレビ番組で見るようになる、そして、観光地と化した秋葉原に行くついでに、劇場で生で見たくなる。メール抽選でもあり、ほぼ毎日公演している「会いにいけるアイドル」だから、最後まで敷居は低く設定されている。そして、あの距離で対峙する力を劇場で体感するのである。
さらに、その力と距離感がそのまま、見に行った人が、興奮や面白さを伝えたい相手との近さとなる。その近さは、ブログのクチコミや、動画共有サービスのコメント、掲示板の評判、マスコミの扱い、そのほか全てをひっくるめた、どんなものより強い説得力を持っているはずだ。大きな会場で公演をする、あるいは、矢継ぎ早に新曲を出す手法ではなく、同じような近さで見られる場所を、まず秋葉原以外に作るという選択肢を選んだのも、そのためなんだろう。リアルな体験こそが、人を動かす究極的な原動力になるからだ。

ただし、携帯会社が囲い込んでいるビジネスモデルに乗れるのも、あと少しのことだ。今回は、ほかのコンテンツホルダーとともに、AKB48NTTドコモの実験に付き合っているという形なのだろう。コンテンツの整備で、高くなっていく携帯端末の機種変を呼び込めるかという試みだ。
iPhoneをはじめとするスマートフォンの時代はすぐそこまで来ている。通信端末の変化により、やがてiモードは消え去っていく。AKB48は選んできたパートナーを再考する時が来るかもしれない。そのための布石は、名古屋進出の影に見え隠れしているようだ。いずれにせよ、そのときにもAKB48はしたたかな手を打つだろう。そうした次の手を想像するのもまた、AKB48の楽しみ方のひとつかもしれない。

佐伯美香が渡る薄氷の境界線

B3rdは楽しいセットリストだ。『ワッショイB!』に象徴されるような、無邪気さの裏側にある内向きの自画自賛も、あるいは強がってみせることも、賛否はともかく、若さゆえに可愛らしさに繋がっている。公演内で歯抜けするメンバーの分だけ傷つき、だが、その傷を自ら癒しながら逞しくなっている。チームBの成長は確実に感じられる。
もっとも、チームAやチームKより幼く、「伸びしろ」の多い分だけわかりやく成長して見えるから、というのもあるだろう。これは、現在のチームBが面白いと感じる部分の、間違いなく大きな要因のひとつのはずだ。ただしもうひとつ、同じ公式を当てはめられるものある。B3rdで優遇されている研究生の存在だ。なにしろ、「伸びしろ」を考ると、機会に恵まれさえすれば、チームKよりチームBが、チームBよりも研究生が、という具合に、成長がさらに可視化されるからである。

思えば、代役でもない研究生に、アンコール前に自己紹介をさせる扱いは破格のものだ。それはまるで、研究生とメンバーが同じ扱いであるかのようにも受け取れる。見方を変えれば、AKB48全体にとって、チームBの正式メンバーとは、研究生とほぼ同じ「まだまだの」扱いである、といえるのかもしれない。さまざまな経緯があったにせよ、チームAから派遣されたメンバーが、ここまでチームBの主軸を担ってきたのがいい例になる。浦野一美という強力なリーダーの存在も、個々人の和によるチームとしてのまとまりが、未だ途上であるということの、裏返しでもある。

チームBは、チームAやチームKほどの、経験の積んだマルチプレイヤーがいないことによって、もしくはAKB48のそうした戦略によって、ほぼ全ての代役をメンバー間の補完ではなく、研究生に頼っている。また、チームBを応援する層は、研究生を名前付きで観る機会も多く、研究生込みでチームBを熱心に応援する層も多いようだ。代役で出ていなくとも、バックダンサーとして、研究生は存在を認知されている状況である。これは、研究生と競演するチームBの正式メンバーにとって、一筋縄ではいかない複雑さを孕んだ問題ではないだろうか。現に、研究生の台頭を、脅威として感じているメンバーもいるだろう。そして今、そのことを誰よりも意識しているのは、研究生から昇格を果たし、現在怪我と闘いながら公演を続けている「美香ちぃ」こと佐伯美香だろう。

のちに引きずるような怪我を抱えた佐伯は、チーム立ち上げからのオリジナルメンバーではなく、研究生からの昇格組のひとりだ。同じ怪我という括りでも、チームK梅田彩佳や、チームB・松岡由紀のように、長期離脱後の復帰が許されるとは限らない位置にいる。いわゆる生え抜きではない「外様」だからだ。足の具合によっては、チームとしての最良の判断において、AKBを脱退、という可能性も0ではないはずである。そのように区別されたとしても、なんら不思議ではない。ここは踏ん張りどころだと、佐伯自身もそう感じているはずである。
さらに、研究生として上へのし上がることを考えてた過去を持つだけに、研究生に代役を任せたくない、という本音もあるだろう。ここで怪我により離脱となれば、抜擢された2人ユニット『てもでもの涙』を通して、代役の研究生が、一気に存在感を増すことは間違いないからだ。そして、チームBを見守っている層は、研究生を違和感なく受け入れることも容易に予想できる。自分自身がB2ndで築き上げてきたことと、ある意味同じことを、研究生に繰り返されてしまうのだ。

だから佐伯は、痛々しいテーピングして、全体曲の欠場を何曲も重ねながらも、公演に参加し続けているのだろう。その姿からは、掴んだ正式メンバーの座を、絶対に手放さないという覚悟が滲み出ているかのようだ。それが顕著になるのは、前述のユニット曲である。鬼気迫る佐伯の覚悟と、「ゆきりん」こと柏木由紀の豊かな表現力が拮抗して、スリリングで見応えのあるドラマを、見事に作り上げている。逆境によって表現力が磨かれ、それが成長の証しとして輝く瞬間は確かにある。

ただし、再発の危険のある怪我は、チームBの「時限爆弾」である。佐伯の覚悟も、状況次第でチームBの足を引っ張りかねないものだ。わがままと紙一重の覚悟も、そう長く続けられるものではない。リーダーの浦野が、パフォーマンスの質を見極めるかのように、ときおり佐伯を厳しくチェックしているように感じるのは、気のせいではないはずだ。

現在佐伯は、研究生世代の先頭を走る「誇り」と「焦り」を、綯い交ぜに抱えて、研究生から一番に昇格した過去を懸命に振りほどきながら、自らが越えたはずの境界線の上を綱渡りをしているように見える。B3rdは楽しいセットリストだ。しかし、「若さ」とは「加減を知らない」ことでもある。このまま何事もなく千秋楽まで走りきって欲しい。そう願うばかりだ。

大島麻衣と佐藤亜美菜、春が来るまで

「まいまい」こと大島麻衣のブログで、先日のAKB48・1000回公演において、アンコールで駆けつけて、公演に参加できた喜びがつづられていた。みんなのお姉さん的存在でもある「あゆ姉」こと折井あゆみ、軽口を叩ける仲の「みっちー」こと星野みちる、しっかりした妹分の「かや」こと増山加弥乃ら、チームAを卒業していったメンバーと、旧交を温めた様子が伺えてほほえましい。

現在、芸能界で最も成功しているAKB48のメンバーといえば、その大島だろう。喋りの手数の多さと、状況を推測できる頭の回転を持ち、その割にアンバランスな知識が、主にバラエティー番組という舞台で開花しているようだ。これは、いわゆる「おバカタレント」需要という、芸能界での流行に乗った形であれ、将来への布石を着実に打てているように思える。AKB48メンバーのあるべき形のひとつを、文句なしに実現しつつあるのだ。

しかし、AKB48の中の飛び抜けた存在である大島は、芸能人として光の当たる顔のほかに、コインの裏表のように、「先行者の孤独」を、その横顔に映し出す瞬間がある。A4thリバイバルの『春が来るまで』という、佐藤亜美菜とのデュオソングのときだ。

もともとこの歌は、歌唱力が光る星野に大島の負けん気が導かれて、魅力的な化学反応が起こるという、声とメンバーの相性を計算されたユニットだった。気の置けない親友同士の大島と星野だからこそ、成り立っていたユニットだと言えるだろう。それが、星野の卒業を経たA4thリバイバル公演では、大島は佐藤と組むことになった。

大島にとって佐藤は、舞台の上での代役は務まっても、苦楽を共にした星野の代わりになる存在ではない。曲中に星野と視線を交わしていた場面も、佐藤とは交わしていないか、あるいは交わしても、星野の影を重ねて見ているのではないかと思わせる虚ろさを見せるときがある。そこには、メディア仕事の多忙さによる疲労だけでは、説明できない何かがあるように感じるのだ。まるで『春が来るまで』を、星野とふたりだけの歌として、大切にしたい気持ちが作り上げた、「殻」に閉じこもって歌っているかのように。
別の仕事で休演した1000回公演に駆けつけられたのも、親友と言ってはばからない星野らと、再び舞台に立ちたいと願う、本人の強い意志があったからだろう。そこには、卒業という決断をして袂を分かった親友たちに「置いていかれた」過去と、それでもAKB48の中で先行しなければならない現在の「孤独」を癒してくれる、「懐かしさ」や「嬉しさ」があると思ったからではないだろうか。

だが、もうひとり「孤独」を抱える存在がある。研究生の中では正式メンバーに近いと思われた存在にも関わらず、クセのあるユーティリティプレイヤーであることが災いして、メンバー入りが遅れた佐藤だ。そして彼女は、『春が来るまで』のパートナーでもある。
不幸にも、共演者が大島のときの佐藤は、空気を察してか、大島が休演したときの相手役の研究生、小原春香を相手にするときとはまるで違う、遠慮がちのパフォーマンスに終始する。佐藤にしてみれば、多忙による大島の休演が多く、ままならないことも多いに違いない。完成度の高いユニットだった『春が来るまで』を、研究生から昇格して間もない自分が、AKB48の先端をいくベテランの大島と、ふたりきりで共演する重圧も、かなりのものがあるはずだ。

考えてみると、親友の卒業したチームAの中で先行する大島と、研究生仲間と離れて、チームAに入った佐藤の立ち位置は、とてもよく似ている。他の研究生に「置いていかれた」過去と、研究生世代の中で先行しなければならない現在の「孤独」。佐藤もまた、実は大島と同じ重荷を抱えているように思えるのだ。
実は、ふたりの抱えるものの根源は同じで、双子の魂のように、一番遠くて一番近い存在なのかもしれない。だから、ふとしたきっかけのふとした瞬間に、お互いの孤独をひとつに溶かし、共有することによって、ふたりは通じ合えるような気がするのだ。そして、そんなふたりがパートナーになったのも、成長のために課されたAKB48という物語の、「偶然の必然」に思えてくる。

もし、『春が来るまで』が、もう一度輝きを放つとしたら、ふたつの孤独な魂がわかり合えたそのときだろう。たぶん今は、お互いに心のどこかで、「気付いてくれたなら、いいのにね」と思う自分を抱えながら、少し遠回りしているだけなのだ。
だから、このリバイバル公演が終わる頃には、片思いの歌ではない、大島と佐藤の『春が来るまで』が届けられると信じたい。ふたりの心の雪融けを待ちながら、そんなふうに、春を夢見ている。

高橋みなみのために鐘は鳴る

二重三重のPAトラブルに見舞われた公演があった。公演がはじまってすぐに、音が出なくなる、欠ける、割れる、MCの尺が計れない、など。ここしばらくで例を見ない、最悪のトラブルだったように思う。
慌てたPAオペレーターは、多くの曲で基調ボーカルを取る「たかみな」こと高橋みなみに丸投げ。歌の苦手なメンバーは十把一絡げに絞り、歌のバランスをガタガタにする失態を演じた。誰もが心の中で恐れていた通り、連日の酷使が祟って疲労骨折するように、公演は崩壊するように見えた。
しかし次の瞬間、冒頭から見舞われたハプニングが、お昼寝どき公演のメンバーの目を覚ました。降って沸いた重責を託された高橋は、ハプニングに戸惑いを見せたのも直後だけ、そのあとは、音程が外れようとどうだろうと、振り付けと歌の兼ね合いを、高いレベルで維持すべく力を尽した。今思えば、高橋のポジションが代役の研究生だったら?と考えてヒヤリとするものの、高橋の存在感をあらためて感じさせるものとなった。

チームとしてのまとまりを、とかくチームKと比較されてきたチームA。サッカーに例えれば南米系の、個々の能力を活かしたフリースタイルの公演を続けてきた。だが今回のように、献身的な高橋の元に、逆境の中で必要なチームとしての絆を、またたくまに結ぶこともできるのだ。もしかしたら「プロ根性」と言い換えられるだろう。それは、チームAらしさの発現でもあった。

MCでは、各メディアで「むちゃ振り」をこなしてきた大島麻衣が、機転を利かして、ハプニングをサプライズと笑い飛ばして培った度胸を感じさせ、戸島花は、戸島らしいひねくれた陳謝と感謝の気持ちを言葉に織り込んだ。峯岸みなみは、わかりやすくテンションが上がっていた。篠田麻里子はいつも通りよく笑った。佐藤由加理佐藤由加理だった。そして、手慣れたすべり芸でオチを引き受ける高橋の懐の深さもそのままだった。研究生という後輩を前に、先輩としての役割を、いつも通りこなしているメンバーの姿が目立った。

そうして辿り着いた『BINGO!』では、ハプニングを乗り越えて公演を作り上げた喜びを、文字通り爆発させる。マイクを通した声がおかしくても、通さない声も届きそうな小さな劇場である。届けとばかりに、気持ちを込めていたメンバーの姿が目立った。
久しぶりの公演となった篠田を待ち望んでいた層が、公演を成功に導こうとして、過剰なまでのフォローで空気を支えた面もあっただろう。同じハプニングを共有することによって、一部の発していた熱狂の後押しが、劇場を前向きな力で満たしていったように思う。
だから、最後の『なんて素敵な世界に生まれたのだろう』の歌詞、「人生の中の、わずか1ページ」「もっと誰かを愛して、愛されてごらん」が、実感の伴った福音として、かつてないほど響き渡ったのだろう。これは、ひまわり組を経て、4th公演を再び咀嚼して歩いてきたチームAにしか、言霊を入れられない歌詞である。
メンバー同士が抱擁する場面では、公演をひとつ乗り越えたことを労うように、研究生を気遣う抱擁が印象に残った。その「優しさ」は、経験を積んで、試練をくぐり抜けて磨かれるものである。今回の公演では、磨かれたチームAという宝石の輝きが、確かに感じられる瞬間があった。グダグダであろうと、ヤケクソであろうと、幕が上がってしまえば、最後までやり抜くしかない。「楽しみ」に転化してみせることで、チームAの逞しさを存分に見せつけたのだ。
なにしろ、踏んだ場数は伊達ではない。チームAの「A」は、はじまりの「A」なのだ。そしてこれからも、公演1000回を数えるAKB48の先頭を走るチームAは、AKB48のエースの「A」であり続けるはずだ。小さな高橋みなみの、大きな存在とともに。

研究生公演という「冒険」から見えてくるもの

先日の研究生公演は、予想通りの盛り上がりを見せたらしい。なかでも、古くからAKB48を見守ってきた層の、継続を望む熱い反応が目立つようだ。半数近くのメンバーが休演する公演を行ってきた、現在のチームAの状況を憂いてきた層だろう。研究者公演決定の休演者ボーダーラインは8名だろうか、かねてからメンバーの休演対策を考えていた運営側も、半数近くが仕事や病欠で休演するタイミングを選び、今回のような決定をしたのだろう。その柔軟な決断を歓迎する一方、告知タイミングの危うさから、批判に晒されるスタンドプレイぎりぎりの賭けでもあった。しかしこれは、盛況の結果を残したことから、ファインプレイと賞賛されたようだ。
その結果による継続を望む声であろう。中には「誰が公演していても満席になるから研究生でもいい」という強気な声も聞こえるが、これは先日の女性公演が半分空席だったという事実から目を逸らしているように思える。確かに、誰が公演していても、毎日のように劇場へ通う一部の層もあるだろう。しかし、その狭い層を相手にしていていいのだろうか?先細りの縮小再生産という、不毛なループに陥らないためには、ファンの裾野を広げることが大切である。

だから、研究生公演はあくまで、四半期に一度など間隔を空けたものや、あくまでコアな層のファンサービスで行う、FC限定のイベントに留めておくべきだろう。理由は単純だ。メディアでAKB48のメンバーを知り、劇場に足を運ぶ新規のファンは、メディアで知ったメンバーを目的に見に行くからだ。それこそが「会いにいけるアイドル」という、失ってはならないコンセプトのはずである。やっと全国展開のメディアの露出も増え、AKB48が当初の狙い通りに回りはじめた昨今、休演メンバーが多く、やりくりが大変だからといって、「会いにいけるアイドル候補生」であってはならない。それに、研究生公演は、今回のように急なものではなく、慎重に準備されたものであることが、研究生にとっても望ましいのではないだろうか。

研究生公演のメリットは、研究生が劇場で公演を「通し」でできること。しかし、それ以外のメリットが、彼女らにとってあるのだろうか?
「自分たちを見てくれない」チームの中で揉まれ、磨かれていくのと、はじめから研究生を目当てにした層を相手をするのでは、晒される厳しさが違い、試されるものが違うだろう。研究生グループの中で結果を出すことも必要だが、その上で、チームの公演に出て、目を引く力を発揮してはじめて認められる。そうでなくてはならないはずだ。
厳しいシステムかもしれないが、正式メンバーと研究生、一軍と二軍、推しと干され、世代の新旧があるから劇場は文字通り「劇的」なのだ。上を目指して努力する。下からの突き上げを跳ね返す。この上下の境は、はっきりと線引きしておかなければならない。舞台での扱いも、当然それに準ずるもののはずだ。それこそが、研究生公演のような、ある種の「理解のある身内相手の公演」ではなく、研究生の成長に必要な「必要条件」なのではないだろうか。

現状でも研究生に機会は与えられている。正式メンバーのメディア出演で空いた穴に、これからも出番は与え続けられるだろう。研究生のメディア出演という希望の芽も出てきている。これは代役で出たときに関係者の目に留まった可能性が高い。そういうような、メディアを介した認知度の下克上もありうるのだ。そんな中で、研究生としてくすぶり続けるようなら、残念ながら、その研究生のAKB48でのキャリアはそこまでなのだろう。認めさせ、引導を渡してやるのも、また違う新しい場所での一歩を踏み出させるきっかけになるはずだ。そして、それがAKB48という場のためでもあり、AKB48をステップに人生を生きていこうとする、彼女らのためなのだと信じている。