大島麻衣と佐藤亜美菜、春が来るまで

「まいまい」こと大島麻衣のブログで、先日のAKB48・1000回公演において、アンコールで駆けつけて、公演に参加できた喜びがつづられていた。みんなのお姉さん的存在でもある「あゆ姉」こと折井あゆみ、軽口を叩ける仲の「みっちー」こと星野みちる、しっかりした妹分の「かや」こと増山加弥乃ら、チームAを卒業していったメンバーと、旧交を温めた様子が伺えてほほえましい。

現在、芸能界で最も成功しているAKB48のメンバーといえば、その大島だろう。喋りの手数の多さと、状況を推測できる頭の回転を持ち、その割にアンバランスな知識が、主にバラエティー番組という舞台で開花しているようだ。これは、いわゆる「おバカタレント」需要という、芸能界での流行に乗った形であれ、将来への布石を着実に打てているように思える。AKB48メンバーのあるべき形のひとつを、文句なしに実現しつつあるのだ。

しかし、AKB48の中の飛び抜けた存在である大島は、芸能人として光の当たる顔のほかに、コインの裏表のように、「先行者の孤独」を、その横顔に映し出す瞬間がある。A4thリバイバルの『春が来るまで』という、佐藤亜美菜とのデュオソングのときだ。

もともとこの歌は、歌唱力が光る星野に大島の負けん気が導かれて、魅力的な化学反応が起こるという、声とメンバーの相性を計算されたユニットだった。気の置けない親友同士の大島と星野だからこそ、成り立っていたユニットだと言えるだろう。それが、星野の卒業を経たA4thリバイバル公演では、大島は佐藤と組むことになった。

大島にとって佐藤は、舞台の上での代役は務まっても、苦楽を共にした星野の代わりになる存在ではない。曲中に星野と視線を交わしていた場面も、佐藤とは交わしていないか、あるいは交わしても、星野の影を重ねて見ているのではないかと思わせる虚ろさを見せるときがある。そこには、メディア仕事の多忙さによる疲労だけでは、説明できない何かがあるように感じるのだ。まるで『春が来るまで』を、星野とふたりだけの歌として、大切にしたい気持ちが作り上げた、「殻」に閉じこもって歌っているかのように。
別の仕事で休演した1000回公演に駆けつけられたのも、親友と言ってはばからない星野らと、再び舞台に立ちたいと願う、本人の強い意志があったからだろう。そこには、卒業という決断をして袂を分かった親友たちに「置いていかれた」過去と、それでもAKB48の中で先行しなければならない現在の「孤独」を癒してくれる、「懐かしさ」や「嬉しさ」があると思ったからではないだろうか。

だが、もうひとり「孤独」を抱える存在がある。研究生の中では正式メンバーに近いと思われた存在にも関わらず、クセのあるユーティリティプレイヤーであることが災いして、メンバー入りが遅れた佐藤だ。そして彼女は、『春が来るまで』のパートナーでもある。
不幸にも、共演者が大島のときの佐藤は、空気を察してか、大島が休演したときの相手役の研究生、小原春香を相手にするときとはまるで違う、遠慮がちのパフォーマンスに終始する。佐藤にしてみれば、多忙による大島の休演が多く、ままならないことも多いに違いない。完成度の高いユニットだった『春が来るまで』を、研究生から昇格して間もない自分が、AKB48の先端をいくベテランの大島と、ふたりきりで共演する重圧も、かなりのものがあるはずだ。

考えてみると、親友の卒業したチームAの中で先行する大島と、研究生仲間と離れて、チームAに入った佐藤の立ち位置は、とてもよく似ている。他の研究生に「置いていかれた」過去と、研究生世代の中で先行しなければならない現在の「孤独」。佐藤もまた、実は大島と同じ重荷を抱えているように思えるのだ。
実は、ふたりの抱えるものの根源は同じで、双子の魂のように、一番遠くて一番近い存在なのかもしれない。だから、ふとしたきっかけのふとした瞬間に、お互いの孤独をひとつに溶かし、共有することによって、ふたりは通じ合えるような気がするのだ。そして、そんなふたりがパートナーになったのも、成長のために課されたAKB48という物語の、「偶然の必然」に思えてくる。

もし、『春が来るまで』が、もう一度輝きを放つとしたら、ふたつの孤独な魂がわかり合えたそのときだろう。たぶん今は、お互いに心のどこかで、「気付いてくれたなら、いいのにね」と思う自分を抱えながら、少し遠回りしているだけなのだ。
だから、このリバイバル公演が終わる頃には、片思いの歌ではない、大島と佐藤の『春が来るまで』が届けられると信じたい。ふたりの心の雪融けを待ちながら、そんなふうに、春を夢見ている。