大江朝美が手探りで切り開いた自分の道

チームA4thリバイバル公演に行くと、「おーぃぇ」こと大江朝美が目を引く。
ふわふわとゆるすぎる踊りと、椅子席を覗き込んで、語りかけるような歌い方という、極端なスタイルが目立つからというのもある。同じ猫背でも、背筋を伸ばして遠くの立ち見席を、あるいは劇場外に広がる「未来」までをも見据えて歌う高橋みなみとは、まるで対照的だ。
同じように長期離脱していた中西里菜が、喜びを爆発させるかのように動き回り、ブランクを感じさせない、生粋のパフォーマーであることを証明してみせる一方で、大江は、その中西とも対照的に、ある意味でブランクを感じる、意義のある成長の片鱗を見せているように思う。

大江は、曲中の振り付けを、まるで『帰郷』間奏のマイムのように、振り付けの枠を逸脱した、心の情景を過度に伝える手段として、無意識に演じているよう見えるときがある。背筋に冷たいものを感じて、その内省的な傾向を心配する瞬間もある。しかし同時に感じるのは、アイドルという「道化」を演じる、覚悟と哀しみのようなものを、俯きがちな背中と、ぼんやりと描いた振り付けで表現している「凄み」のようなものだ。
休んでいた間の葛藤と哀切を、自身の天然キャラの裏の人格として、より深みを増した表現ができるようになったのだろう。そんなときの大江は、往年の俳優、勝新太郎演じる「座頭の市」が到達した表現と重なっている。…というのは大げさにしても、表現者として、無情諦観の表現まで近づけているのではないだろうか。

だから、A4thリバイバル公演の個人的なハイライトは、アンコール前のラスト曲『軽蔑していた愛情』である。入れ替わり立ち替わり歌うメンバーは、まるでクラスメイト同士のように、それぞれの役割を演じている。揃わなければならないのに、大江と高橋と並んで踊る大サビなど、とても同じ振りつけとは思えないものだ。
しかし、おかしいかもしれないが、この瞬間が、それぞれに世界があり、これこそがチームAなのだ、と思わせる白眉の場面のように思える。そして、集団の中で演じられてきた、大江の暗黙の役割のようなものが、楽曲の歌詞とも相まって、いやがおうにも胸に迫ってくる。この歌が作り出す劇的な空間が、アンコール前の余韻を、いっそう引き立てているのは疑いようがない。その陰には、手探りで切り開いた自分の道を往く大江の存在があるのだ。
今、A4thリバイバル公演から目が離せない。